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ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第2章 - 5

 徳川一族。初めは「松平」を名乗って居たが「徳川」の苗字は先代の住んで居た群馬上野国新田郡世良田郷徳川(ぐんまこうずけのくににったぐんせらだごうとくがわ)と云う地名から、「家康」の名は「家用(も)って平らかに康し」と願って名乗ったのである。「国家安康君臣豊楽」で有名な天魔外道と称される悪徳坊主以心崇伝(いしんすうでん)の入れ知恵である方広寺鍾銘事件の「内府公家康の頭と胴体を安っぽいと言う字で真っ二つにして居る」との言掛かりであるが、蓋を開けて見れば実は、はなっから家康の頭と胴体は繋がって居なかったのである。大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)は家康の先祖を酒井五郎左衛門の家に上がり込みそこの女に唾を付けた如何様乞食坊主と言う。
 実は家康が源氏の家系と称する様に成るのは幕府開設の前年である1602年、それ迄は「藤原」の流れと称して居たのである。徳川の始祖は清和源氏の嫡流、源義重(みなもとのよししげ)四男得川義季(とくがわよしすえ 当時は「得」川と称す)とされるが代替わりで落ちぶれ徳阿弥の代には流浪の如何様乞食坊主と化し三河「坂井」郷の庄屋「酒井」五郎左衛門の宅に泊めて貰った分際でそこの娘に唾を付け是が孕んで婿と成り息子親清(ちかきよ)を産ませて先立たれ又、金蔓探しに流浪の生活に戻る迄一時的に酒井五郎左衛門宅に居座りその財産を私物化。ど腐れ根性の上に付け上がった此の「疫病神」は今度は三河松平郷の太郎左衛門に憑り付き例に因ってその娘に唾を付けて孕ませ又婿入り。松平太郎左衛門親氏(まつだいらたろうざえもんちかうじ)を名乗る。しかし実在の確認が成されて居るのは孫の松平信光からで加茂氏血統を自称。その後、親忠、長親、信忠、清康、広忠、家康と来て居る。
 家康の祖父で清康の親である信忠はその圧政から家臣団に因り引退に追い込まれ13歳で清康が松平宗家を相続。13にしては出来過ぎた漢で宗家に専横な振る舞いの目立った同族の大草松平信貞(おおくさまつだいらのぶさだ)を岡崎に破り三河を平定。しかしその前に信忠との宗家争いに敗れた桜井松平信定(さくらいまつだいらのぶさだ)が復活を果たさんと大給松平親乗(おぎゅうまつだいらちかのり)、長沢松平康忠(ながさわまつだいらやすただ)、織田信秀、織田信光兄弟を焚き付け宗家の清康を殺処分しようと一計を案ずる。
 清康の三河席捲後の尾張進出の際家臣阿部弥七郎に殺られる森山崩れの現場には信定は仮病を使い来て居らず尾張の織田を相手取るならと清康が出かけた後で織田に呼応し背後から挟撃せんと企て、その上流言飛語で攪乱を計る計略に物の見事に引っ掛かったのが阿部弥七郎だったのである。清康、享年25歳。
 清康の遺児10歳の幼名仙千代の広忠を守る為死兵と化した仙千代の叔父三木松平信孝、鵜殿松平康孝等800程度の兵は岡崎郊外井田野に於いて8000の織田を崩し敗走せしめる。
 だが未だ松平宗家の危機は去っては居ない。外聞も無く事も有ろうに織田に内通して居た筈の見え透いた野望に燃える桜井松平信定が仙千代つまり家康の父に当たる幼い頃の広忠の「後見人」を称して仙千代暗殺、宗家乗っ取りを画策。老臣阿部大蔵は譜代の大久保忠俊(おおくぼただとし)と計って密かに仙千代を連れて岡崎を脱出、伊勢神戸(いせかんべ)の東条持広(とうじょうもちひろ)を頼って忠俊は岡崎に残り大蔵が仙千代を連れて落ち延びる。持広は清康の妹婿、此の持広の所で仙千代は元服、「広」の字を貰って「松平広忠」を名乗る。だが程無く持広が死に養子の東条義安(とうじょうよしやす)が後を相続すると此の男、織田に取り入る為に広忠を引き渡しそうに成ったのでまた脱出、今度は遠江掛塚(とおとうみかけづか)の鍛冶五郎(かじごろう)の家に逃げ込む。そして岡崎を拠点とする三河は東の今川と西の織田に良い様に蹂躙されたので意を決した阿部大蔵は駿河の今川の方に下り三河岡崎の回復に助力を請う。今川は是を機に三河を織田攻略の最前線に属領として使うを条件に三河の茂呂の城を与え助力を快諾。岡崎に残って居た大久保忠俊は桜井松平信定の狼狽振りを見て居り起請文を何枚も書かされるが阿部大蔵と一緒に居る広忠とは離れて居ても「広忠を三河岡崎城主に」と云う一心で信定に面従腹背を決め込み突然信定を相手取る狼煙を上げ信定派の石川兄弟を討伐し広忠を岡崎に引き入れる事に成功している忠義の策士なのである。家康の父、松平広忠、この時12歳。
 1541年正月、松平広忠は16歳で三河国刈屋城主、水野忠政の娘14のお大を娶る。翌年暮れの12月26日「竹千代」と名付けられた後の徳川家康が誕生する。

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第2章 - 4

 豊臣秀吉。そも、尾張国中村の百姓出身で木下弥右衛門と「なか」と云う女性との間の子で生まれつき右手の指が何故か6本…。弥右衛門の死後、「なか」は竹阿弥と再婚。その竹阿弥と秀吉とは不仲と成り光明寺に預けられるが直ぐに飛び出し「針」を仕入れて放浪の旅に出る。
 そして秀吉は今川義元配下の松下加兵衛之綱(まつしたかへえゆきつな)の所に仕える様に成る。
 厳密な事を言えばその親である松下長則(まつしたながのり)の所で働いて居たと言うのが正しいらしい。と言うのも未だ長則は現役で之綱は秀吉と同い年だったからである。その覚えはめでたかったがその家臣団の方が面白くなく暇を出され最終的に今川を滅ぼす事に成る織田信長の家臣に。
 因みにその後の松下之綱は今川が滅亡すると徳川に下り天正2年第1次高天神の戦いで籠城するも武田に降伏し長浜城主当時の秀吉に家臣として召し出され山内一豊公記には翌天正2年長篠の戦いの際は秀吉の前備として兵100を預けられたとされる。ただし召し出した時期について「松下文書」に因り天正11年10月6日とされて来たのが通説で、どっちが正しいにしても生き残ったのは確かである。関ケ原の2年前に62歳で死亡。家督は何故か長男の松下暁綱(あきつな)ではなく次男の重綱(しげつな)が継いで、娘のおりんは、あの柳生宗矩に嫁いで居り柳生十兵衛三厳の母親と成って居る。
 此の秀吉なる男、百姓の出で、真面に兵法をやった事こそ無いが天才的な家康に次ぐ「国盗り」能力に特に秀でた者で在った。家康との決定的な違いは兵法と共に「統治」も学んだ家康に対し秀吉は信長の顔色を恐れるが故に忠実で、専ら統治は任せっきりの見様見真似。別段国を預かる家柄でもなかった為、学ぶ必要にも迫られず、本能寺の件で「敵討ち」と称して光秀討伐を行う迄は美談で残るが下手に身の程を弁(わきま)えず黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)に唆され野望を持った為、賤ケ岳の一件の後、表面上信長の事業を受け継いで成し遂げた様に見えるが初めての統治に戸惑い、今度は要領の良かった弟の秀長に依存。その秀長にも先立たれ五大老五奉行と云った始末で必ず他人任せ。
 こう言った話が有る。当時は先代が源氏の流れの者でそれが廃れると次は平氏の流れの者が天下に覇を唱えると云った「源平交代思想」なる物がはびこり、織田はそも平氏の流れで在った斯波氏に仕えて来たがその主家を踏み倒して実力で成り上がった家柄で秀吉は「その事業を引き継いだ家臣」とでも思ったのであろうが「次の政権は本来源氏を名乗る筈」と世間体がそれを認めず政権への悪影響を懸念して武家の頂点として「幕府を開く」と云う事等は無く武家序でに公家をも仕切る「関白」の身分に納まる事に成る。
 本能寺の変後、市は3人の子を連れ柴田勝家に嫁ぎ賤ケ岳騒動で市は勝家と運命を共にし3人の子は一旦秀吉に引き取られ茶々は秀吉との間に子供を儲け、初は京極高次に嫁ぎ、江は忙しく佐治与九郎一成、羽柴秀勝、九条左大臣種通、徳川秀忠と盥回しの運命。
 その後、かの石山本願寺跡地に大坂城を築城、今度の相手は徳川家康。
 序でであるが勝家の所に居た織田信雄が伊勢、尾張を領する清洲城主で在りながら、今度は徳川方に。小牧長久手の一悶着の後、信雄は秀吉と和睦。
 紀伊国の根来衆、雑賀衆を、四国の長曾我部、越中の佐々成政、東北の伊達、関東の北条を平らげ「関白」に就任、「羽柴」から「豊臣」を名乗る様に成る。
 盗る国が無く成ったら「信長も言って居た事だし」と今度は朝鮮出兵。
 そして秀吉は京都に聚楽第を建立。「大仏の 功徳(くどく)も有れや 槍刀(やりかたな) 釘鎹(くぎかすがい)は 子宝恵む」、「末世とは 別にて有らじ 木下の 猿関白を 見るに付けても」と評判の方は余り宜しくない。北野大茶会(きたのだいさのえ)を開催、千利休を殺処分。関白秀次の切腹の2カ月後、豊臣の氏寺、方広寺が完成するも1年足らずで大地震に因り崩壊。
 スペインのサン=フェリペ号漂着をきっかけに「26聖人殺処分」。
 慶長の役2度目の大陸出兵。
 醍醐の花見の直後に秀吉死亡。
 秀吉没後、石田三成は朝鮮出兵に出て居た勢力を引き揚げさせる。
 国盗りの才能は有ったのであろうが家康と違って統治能力が有るとは言えず秀吉は百姓出身、家康は弱小とは言え国を預かる家柄で学ぶ必要に迫られたかそうでないかに因って中央集権体制には変わりは無いが家康は独りで天下統治を抱え込んだのに対して秀吉は何の統治の知識も経験も無く只、信長の顔色を伺い専ら任せっ切りの見様見真似、弟の秀長に依存したりそれに先立たれると五大老五奉行と云った始末で必ず他人任せ。
 更に秀吉は信長に習い派手好きで南蛮交易を初めは推奨せんとして居たが本来南蛮交易とキリスト教は不可分でキリスト教の規制をしながら交易の促進等滅茶苦茶で虫が良過ぎる。普通、税で理想の国家運営を行う為に権力の座を求め天下を目指す物だが国盗りよりも統治の方が厄介で天下統一の後、初めて国盗りの脳は有るが統治能力の無い事に気が付いたのであろう。目上が居なく成り一国を牛耳る立場に在りながら考え無しに感情が表に出て公私混同。あきれた事にキリスト教規制の筈が一夜にして禁教令に変わった理由と云うのが目を付けて居た女を伴天連宣教師連中に邪魔されたからとの事である。
 そんな己自身を皇族の中に「隠し子」と無理矢理位置付け一生「身分」と云う物にコンプレックスを持ち続ける秀吉自身の「統治」とはかくの如き有様だったのである。
 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事も 夢の又夢」

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第2章 - 3

 「織田がつき 羽柴のこねた 天下餅 床机に座りて 喰うが 家康」と人と時代の流れを詠んだ詩(うた)が有ったりする。
 織田信長。織田氏は平安期の平重盛の次男資盛(すけもり)の末裔と伝えられ越前織田庄出の豪族とされるが室町期には三管領筆頭、斯波一族の尾張守護代。信長は織田信秀と土田政久(どたまさひさ)の娘、土田御前との間の子。生まれも育ちも随分と変わった男で、戦国乱世の小国尾張に有って一国一城を背負う嫡男の身で在りながら、身分を問わず慣れ親しみ行儀が悪く遊んでばかり。そんな彼も「遊んで居る様に見えて」実は己を鍛え、人との交流で世間を学び、独学で戦術、交渉術、経済、身の程迄学び、更に好奇心旺盛な男だったので積極的に何でも試す行動派で在った。
 斎藤道三を相手取った初陣も飾りその後和睦で濃姫を貰ったり、尾張中村の木下藤吉郎秀吉と出会ったりするも父信秀と平手政秀、弟信行を失う。只ですらチンピラ、世捨て人の人物像でその「悪評」は広まり松平竹千代こと後の徳川家康の「人質の横取り」で隣の今川義元を完全に挑発、上洛の名目で尾張を占領して行くと云う所迄来て居り、普通舐めてかかっても可笑しくない。
 家康も此の頃には義元の所に居て兵糧運びの任に就いて居たが桶狭間で義元が居なく成り居城岡崎を回復し清州同盟に。
 義元の子、氏真は京都の公家の所にでも生まれれば良かったかも知れないが余りにも文化人で、政治に軍事にと云った男ではなく更に父義元の弔い合戦に及ぶでもなく、京都に移住しては義元の敵、信長の前で蹴鞠を披露した事も有ると云った有様で、しかも家康を大切にして居なかったので清州同盟で手元を離れられ近隣諸国の良い様に領地は蹂躙され義元横死後9年で今川滅亡。学芸には大変有能では在ったが当時の時代背景に添う物では無く人心を掌握する術(すべ)も持たい随分と偏った能力の男だったので77で天寿を全うはしたが「暗愚な男」と言われ続けて居る。当時「滅亡」とは言った物の「今川」は徳川家の高家として登用され明治に成ってもその苗字が残る。
 美濃に於いては斎藤道三が斎藤義竜の為に敗死し義竜病死後竜興が跡を継ぎ信長は市(いち)を浅井長政に嫁がせ秀吉墨俣の一夜城で有名な美濃攻略に乗り出す。美濃を攻略後、足利義昭を奉じて上洛、明智光秀と会い、伊勢の北畠具教(きたばたけとものり)、近江の六角承禎義賢を攻略。越前朝倉義景を攻略しようとしたら逆に敗走、殿(しんがり)は秀吉。今度は信長、秀吉、家康の最強布陣で姉川に於いて浅井、朝倉を破る。そして秀吉は丹羽長秀と柴田勝家から1文字ずつ貰い「羽柴」を名乗り北近江三郡に封ぜられ旧浅井家臣団や元茶坊主石田三成を登用したりして居た。
 一向一揆、比叡山延暦寺攻略、武田信玄没、抵抗する将軍足利義昭追放、浅井、朝倉を破り、市、茶々、初、江と女子は戻って来るが男子の万福丸は殺され幾丸は小さかった為、後に出家させられ豊後細川藩を頼り杵築浅井として続くと云う展開に。
 武田勝頼を長篠に破り、根来(ねごろ)、雑賀(さいが)一向一揆討伐、松永弾正久秀を討滅、石山本願寺と近畿方面を攻略。
 明智惟任日向守十兵衛光秀に因る本能寺の変で信長没、直後に堺見物に来て居た家康は臣君伊賀越え、二週間も経ってから形ばかりの弔い挙兵。
 中国地方の毛利攻略に派遣されて居た羽柴秀吉の所に明智から毛利宛に届く筈であった手紙を持った者が捕えられ本能寺の変を知った秀吉は直ぐに清水宗治の切腹を条件に毛利と和睦、旗指物を借り受け弔いの大返し、決闘山崎天王山。光秀は敗走し追剥(おいはぎ)に殺られて絶命。後から来た秀吉にその首級を取られ本能寺に晒され豊臣秀吉の政権に。3日天下と言われるが実際は12日。
 早速その後継ぎについて柴田勝家の推す三男織田信孝か羽柴秀吉の推す信長嫡男信忠の長男三法師(後の秀信)に後見役信孝が付いて来るかで勝家と秀吉が対立、結局信長葬儀は秀吉が仕切り次男信雄、三男信孝、滝川、柴田抜きで「つつがなく」終了。

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第2章 - 2

 板倉、石谷が島原へ出かけてから15日遅れで松平信綱、戸田氏鉄(とだうじかね)が出向く事に成る。
 松平伊豆守信綱は伊奈忠次(いなただつぐ)配下の大河内久綱(おうこうちひさつな)の子で埼玉出身。
 知恵伊豆(出づ)等と仇名され良く家光に仕えたが、家光死後は「伊豆まめは 豆腐にしては 良けれども 役に立たぬは 斬らずなりけり」、「仕置きだて せずとも御代は 松平 此処に伊豆とも 死出の供せよ」と出る杭は打たれるのか散々な言われ様。その人生を家光に捧げた「仕事人」では在ったが「評判」とは別である。
 徳川幕府開設以来、改易に処分に遭った大名家は90を数え、禄高は1000万石を越える。その家臣20万程が浪人と成り泰平の世に成ると貨幣経済も発達し生活がし辛く成る。その上、生活の保障も出来ないのに横暴な浪人狩りも行われたので居場所が無く成るのに、是で幕府に物言うなと言うのである。
 「人間が余って要らない」のである。一応秀吉の時代には既に「要らない者の有効利用」で海外に人身売買も行われては居た。
 そんな柳生が仕える徳川幕府とその経緯(いきさつ)であるが、安土、桃山戦国期を代表する信長、秀吉、家康の時代を中心に足利将軍家を踏まえて述べて置きたい。
 きっかけは足利将軍義政と妻、日野富子との犬も喰わない夫婦喧嘩に端を発する「応仁の乱」である。
 只ですら財政が傾いていた足利将軍家、その上8代目義政は浪費癖も有って何度か徳政令(今で言う不渡り、借金踏み倒し令の事)を出し、社会的信用を失い各地で一揆が頻発。それが故に猟奇的な妻、日野富子が政治に介入するに至る。更に初め義政は弟の義視(よしみ)を次の将軍にと考えて居たが、間の悪い事に妻、富子が「義尚(よしひさ)」を産んで管領(かんれい)職である畠山持国(はたけやまもちくに)と斯波義健(しばよしたけ)の家督争いが直接のきっかけと成り東軍、足利義視には細川勝元が、西軍、足利義尚には山名宗全(やまなそうぜん)が味方に付き京都を舞台に本格的紛争が巻き起こる。
 そも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に始まる「征夷大将軍」とは朝廷の命令で動く軍人の元締めの事で、しかも「夷(国賊)を征討する迄の一時的な軍人の元締めで在り任務遂行後はお払い箱」と云った「正式な役職名ではない一時的な、使い捨て」役職と成る筈であった。更に当時の足利将軍家の権威は地に堕ち、諸侯が将軍の言う事を聞かず収拾の付かない状態。「汝(な)れや知る 都は野辺の 夕雲雀(ゆうひばり) 上がるを見ても 落つる涙は…」此処に「安土、桃山戦国期」が到来する!

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第2章

 柳生一族。
 此の一族は柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)が上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな 秀長→秀綱→信綱と名を変える)に教わった県の教えを「柳生新陰流」として代々受け継ぎ戦国期の筒井順慶(つついじゅんけい)、松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)に仕え、十市常陸介遠長(とおちひたちのすけとおなが)、本能寺の変以降は近衛前久(このえさきひさ)、豊臣秀吉に隠田(かくしだ)事件で領地を没収されたりもしたが徳川家康に「白刃取り」を見せて200石で剣術兵法指南役として取り入り、徳川の厚い信頼を得て、明治に成ってもその名が残って居る一族である。
 新陰流の源流で在る愛州陰流(あいすかげりゅう)の愛州移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)は国内はもとより明にも行って来た事も有る。日向宮崎の鵜戸神宮で修行をしていた時期もある。
 更に柳生には但馬守又右衛門宗矩、十兵衛三厳、主膳宗冬(しゅぜんむねふゆ)と云った「江戸柳生家」と新次郎厳勝(しんじろうとしかつ)、兵庫助利厳(ひょうごのすけとしよし)、如流斎利方(じょりゅうさいとしかた)、連也斎厳包(れんやさいとしかね)と云った「尾張柳生家」が有る。石舟斎宗厳の嫡男新次郎厳勝は松永弾正久秀に属して筒井順慶と大和辰市で戦った時に鉄砲玉を腰に喰らって下半身が不自由に成り柳生の庄に引っ込んだ。
 石舟斎宗厳の5男、但馬守宗矩は徳川幕府開設後、その不安定な時期を「柳生存続の為」に「取り締まる側」の極秘諜報機関として他家を食い物に「剣術兵法指南役」の肩書は実は正式役職では無く、今で言う所のアルバイトに「雑給」をくれてやると言った感覚で真面(まとも)な生活は出来ない筈が200石から始まって最終的に12500石に迄上り詰めた一族で在る。
 柳生但馬守宗矩より先に将軍徳川秀忠の剣術指南に雇われた上総の国の一郷士、御子神重(みこがみしげ)の子、御子神典膳(みこがみてんぜん)こと小野次郎右衛門忠明と云う宗矩ですら敵わなかった天下無敵の剣豪が居るには居たが無敵が故に傍若無人で教養品格の欠片(かけら)も無く根の単純さだけが有って柳生の教義「兵法や統治法も同時に学ぶ政(まつりごと)に活かす為の剣」と違い、単なる「個人の剣の腕を上げる為」だけの教義で泰平の世と成れば剣術の教義は「集団」、「無秩序、結果」から「1対1」、「秩序、型」へと移り、手段を選ばぬ実戦では役に立たない物と成って行ったので必然的に柳生一族の方が大切にされ出世したのに対し忠明は600石止まり、柳生一族が策を弄せずとも余りの世渡り下手に孤立し、仕舞には狂死と言う話である。
 策を弄すると言えば大坂夏の陣の際、豊臣秀頼の所に「嫁と言う人質」として嫁いでいた千姫を「連れ戻してくれた者に千姫を嫁がせる」と徳川家康が言い出し宇喜多忠家の子、坂崎出羽守直盛(さかざきでわのかみなおもり)が豊臣側の堀内氏久(ほりうちうじひさ)を介して連れ戻したが何故か家康は何の関係も無い「本多忠刻に嫁がせる」等と言いだし、直盛は面目を潰された事も有り、怒り狂って徳川相手に敵わずともせめて一泡吹かせてくれてやると戦の準備を始めてしまい、柳生但馬守宗矩は「説得」と称して坂崎出羽守直盛の所に行って来るが、その結果直盛は何故か腹を切りその家紋で在る「二枚笠」は一旦徳川の物と成り改めて柳生に下げ渡されると云った事が有った。柳生生き残りに他家を食い物にして幕権強化を図り利用する柳生の剣術兵法指南役と称して行って来たえげつない真実で在る。
 そんな宗矩が「下手をすれば死ぬ」役の後詰めとして口にしたのが「松平伊豆守信綱」だったのである。

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第1章 - 5

 遂に1637年12月11日、島原の口之津と有馬村で一揆勢は蜂起に至り島原の代官林兵左衛門を殺害、島原城の多賀主水が討ち取られ岡本新兵衛は逃走。天草では四郎時貞を中心とした一揆が呼応し本渡を攻撃、富岡城代の三宅藤兵衛重利を討ち取る三宅藤兵衛重利はあの明智光秀の従兄弟(いとこ)に当たる明智左馬之介秀満(三宅弥平次 PS2カプコンのゲーム「鬼武者」)の子で在る。
 しかし富岡城に唐津から原田伊予守嘉種(よしたね)が遣って来ると一揆勢は甚大な被害を出し島原城と富岡城は落ちず原城を占拠して立て籠るのである。
 原田伊予守嘉種は初め父信種、弟種房(たねふさ)と加藤清正の所に居たが清正と対立し領地没収、追放処分を受け次に寺沢広高、堅高親子に仕え島原の乱後改易処分と成って再び浪人、その後、天海僧正の仲介で会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)の所に収まる事に成る。
 こう云った騒動に手が付けられない場合、隣の藩から援軍を頼みたい所であるが現在の都道府県と云った感覚ではなく「他藩は他国」と見なされた当時、一旦幕府に許可を得てからでないと援軍は出せず、知らせを受けた幕府は松平信綱、阿部忠秋(あべただあき)、堀田正盛(ほったまさもり)、三浦正次(みうらまさつぐ)、太田資宗(おおたすけむね)、阿部重次(あべしげつぐ)の6人衆と云う将軍補佐の合議機関が有って後に若年寄と云う正式役職に成るのであるがその中心人物が松平伊豆守信綱で合議の結果、島原藩主松倉勝家と唐津藩主寺沢堅高の帰藩、近くの藩の援軍許可と島原へ板倉重昌(いたくらしげまさ)、石谷十蔵貞清(いしがやじゅうぞうさだきよ)の派遣を決定。板倉重昌は京都所司代を務める板倉周防守重宗(いたくらすおうのかみしげむね)の弟で在る。
 では、何故板倉重昌か?
 実は1632年九州肥後熊本52万石大名加藤忠広(ただひろ)の子、光広が将軍秀忠死亡後間も無く謀反を企てたと土井利勝(どいとしかつ)が言い出し国替えで豊前小倉の細川忠利(ほそかわただとし)が代わりに来る事に成るが、その手続きを進める上使として幕府から派遣されたのが此の男重昌で、無難に任務を果たして来た事が有り、駿河駿府出身ながら九州の情勢に詳しいからと言われる。その重昌も1638年の正月1日早々総攻撃で討死に。辞世の句が「あらたまの 年の始めに 散る花の 名のみ残らば 先駆けと知れ」である。板倉家はその後度々移封が有ったが明治に成っても存続する。しかし…此の決定の後にくちばしを挟んだ者が居た。
 柳生但馬守又右衛門宗矩である!

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第1章 - 4

 談合島。此の島は粗末な小屋が有り小舟で渡って来て僅(わず)かな土地を耕(たがや)し野菜等を作る者が居る位の無人島で在ったが島原組と天草組が遣って来て一揆を企てる様に成り「談合島」と呼ばれ「湯ヶ島」と云う本来の名前よりも語り継がれる事に成った。宮本武蔵と佐々木巌流小次郎の「巌流島」も、その「船島」と呼ばれて居たのが忘れ去られつつある。
 此の談合島に集まったのが島原から森宗意、赤星内膳、天草からは大矢野松右衛門、益田甚兵衛好次と云った者達であった。赤星内膳は信長の孫で在る織田秀信に仕えて居た。大矢野松右衛門は父が本多忠朝の家臣、大矢作左衛門で大阪の陣で忠朝が死ぬと忠朝の家臣を辞め天草に来て帰農した者。 益田甚兵衛好次は元商人のキリシタン大名で在る小西行長の家臣で在ったが関ヶ原で西軍豊臣について破れ、その処刑後浪人に。森宗意は父が森長意と云う男で代々関西で神社関係の仕事をしていた。宗意は武士に成り小西行長に仕え朝鮮出兵の文禄、慶長の役でその荷物運びの船頭をしていたが難破し南蛮船に拾われオランダ、中国にも行った事が有る。日本に戻ると高野山に居たが真田幸村に従い大坂の陣で敗れ長崎の島原に来ていた。弟子に田崎刑部重吉が居る。
 「天草17人衆」と云った者達が居たが当時の生の資料が無く架空の名前も数多く語られる事からはっきりとした名前が判る物は少ない。

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第1章 - 3

 「肥後の国天草地方」はかつて九州の大部分を支配した島津の一部で在ったが秀吉の九州征伐の結果、島津が薩摩に封じ込められ佐々成政が肥後領主に。
 その成政が国人一揆の責任を取って切腹してしまうと、この地は刀鍛冶加藤清忠の子で加藤清正、元商人小西行長の両人に半分ずつ与えられ更にキリシタン大名天草種元を初め天草五人衆「天草種元(あまくさたねもと)、志岐鎮経(しきしげつね)、大矢野種基(おおやのたねもと)、栖本親高(すもとちかたか)、上津浦種直(かみつうらたねなお)」が豊臣秀吉時代、小西行長の配下で所領を安堵されて居たが、行長の城普請の要求を拒否し小西行長と加藤清正に鎮圧され帰属、若しくは取り潰しに遭う。天草種元は取り潰し処分。
 世に言う天草国人一揆である。
 関ヶ原以来、西軍豊臣方で在った小西行長が居なく成ると天草地方は肥前唐津の寺沢広高の領地と成り広高は富岡城を築いて城代家老を常駐させ更に本渡、栖本と云った村に代官所を置いて厳重な支配体制を敷いた。
 因みに秀吉子飼の加藤清正は石田三成を嫌って東軍徳川方に。「讃岐国か肥後国かどちらか選べ」と秀吉に言われ、朝鮮出兵を予見してか肥後国を選んだとされる。その朝鮮で虎退治をして日本に「清正人参」つまりセロリを初めて持ち込んだともされ更に、出兵に際し「長生飴」と云う物を常備して居た事から「朝鮮飴」と呼ばれ、今の熊本銘菓の一つに。幕末の近藤勇も尊敬した人物で勇も清正も拳が開けた口の中に入る。清正はその昔、鹿子木氏が築いた隈本城を改修して熊本城と改め内政にも積極的な所を見せる。何でも「隈本城」は「畏(おそ)れる」と云う字が混じって居るからなのだとか…。
 しかし秀吉の子秀頼と家康の会見迄は生きて居たが大坂の陣に参戦する事無く死亡し子の忠広が家督を継いだものの1632年で改易処分と成り、小倉から細川忠興の子忠利が遣って来て領地とした。一応加藤家は庄内藩お預け。
 本渡の代官は室井文蔵、富岡城代は三宅藤兵衛重利と云う。
 寺沢家は元、織田信長の配下に居た者で志摩守広高の父越中守藤右衛門広政は秀吉時代に直参、播磨伊保庄(いほのしょう)を知行。広高は秀吉の時代には長崎奉行でキリシタンにはそれなりの理解を示す態度で在ったのが禁教令以来弾圧をする側に。広高が死に嫡男堅高が跡を継ぐと更に過激化する上に人が生まれれば「人頭税」死ねば「穴銭」と何かに付けて税を取り立てる圧政。後に堅高は島原の乱の責任を問われ、領地召し上げの上自殺し、寺沢氏は滅亡。
 此の辺りでは何時、何が起きても不思議では無い状態だったのである。必然的に搾取される側は神に救いを求める様に成る。

ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第1章 - 2

 きっかけであるが「有馬村の庄屋次右衛門の弟に角蔵なる男と北有馬村の三吉と云う百姓が御法度であるキリシタンの絵を懸け、付近の人々を集めて拝ませている」と云う報告が島原に伝わりその地方の代官で在った本間九郎左衛門と林兵左衛門が捕吏を送り角蔵、三吉とその家族16名を島原送りにして見せしめに殺害。
 今度は怒り狂った農民達が林兵左衛門を抹殺し本間九郎左衛門を逃亡せしめる逆襲に出ると次第に近くの村でも蜂起する農民が出て来たとされる。と云うのも松倉の領内では年貢の取り立てが特に厳しく成り上納出来ない者は母親、妻子を捕え川の流れに作った水牢に入れたりして居た。隠居した家老の田中宗甫は陰険なやり方で熱心に詮索を行い、口ノ津村の大百姓で与三右衛門と云う物の嫁を米が上納出来て居ないとの事で水牢に入れてしまう。その嫁が身重でしかも産み月に当たって居り水牢で子供を産んで死んだのである。只ですら重税を課せられ取り立て厳しく虐待を受けると云う事で「田中宗甫を討ち取る」と云う所迄地元の者の不満は来て居り田中宗甫は夜陰に乗じて逃げ延びる。
 是は将軍家光や諸大名に面目を失う虐政を無理矢理隠す為「キリシタン一揆」とされたのである。
 そも「籠城」とは「援軍を」充てにしたやり方であるが「神」等と云う物が本気で信じ込まれて居た時代で、今で言えば「後先を考えない抵抗運動」と云う事である。
 逃げようにも幕府に因る「浪人狩り」が行われて居り、山田長政の様に新天地を求めて海外に出て行く者も居るには居たが現地で殺られて居る。
 何時の時代にも言える事なのであるが日本には資源が無く戦前の国連脱退に因る経済包囲網の上にハルノートと八方塞がりで干乾しにさせられる危機感との理由で開戦に至る所謂「窮鼠猫を噛む」と云った事である。どうせ死に逝く者が自棄(やけ)を起こしてから死ぬと云うのも人間に教わらずとも備わって居る本能の一つに過ぎないのであろう。

服部正就_NEW
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Author:ガオ
 宮崎の者で御座います。
 個人的に調査をした事を発表して居りますブログです。
 令和3年7月です。22日は海の日、23日スポーツの日から東京オリンピックが始まる予定です。
 引き続き健康第一!マスクにうがい、手洗いをどうか、宜しくお願い申し上げます。<(_ _)>

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