ファンタスティックヒストリー 超島原幻闘録 ~柳生十兵衛地獄変~ 第1章
2018.04.16(10:37)
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そも此の辺り、「肥前の国島原地方」と言ったらキリシタン大名有馬晴信が領有して居り「藤原」の流れである「龍造寺」家と対峙して居たが、薩摩の「島津」と結託し龍造寺隆信を壊滅に追い遣り豊臣秀吉の島津討伐で今度は秀吉に下り復活を目論む龍造寺政家と供に島津討伐で戦功を挙げ政家は肥前7郡を与えられるも化け猫騒動で有名な家督を譲ったその子供の高房が自殺を図り政家本人も急死した為龍造寺家は消滅。
晴信の方はと言うと是また本田正純の家臣である岡本大八に唆され、甲斐の国で斬刑処理の憂き目に。晴信の子である直純はキリスト教を棄教し日向延岡に移封。代わりに大和の国奈良五条から島原の領主として遣って来たのが松倉豊後守重政。
有馬晴信の子である佐兵衛直純が半島の南端に位置する有馬郷大江村に原城を建てたが日向延岡にに国替えに成ったら重政は是を嫌って廃城とし東端の島原湾に面した高台に島原城を築き居を移す。
直純の方は幕府の禁教令に因り棄教したのが地元で一台顰蹙を買ってしまい自ら移封を願い出て日向延岡に移る。
原城はその景観から別名、日野江城とか日暮城とか言われる。
松倉重政が7年かけて完成させた石垣の上の5層天守閣と云った安土桃山式名城島原城、重税を課して建てられた為「恨みの城」とも呼ばれる。
当初、重政は交易の利点も有ってキリシタンに対し寛大な態度で在ったが、徳川家光が将軍と成り禁教令を強めると弾圧へと変わる。
重政が死ぬと、その子松倉勝家が父重政に輪をかけて過酷な弾圧を行い更に3年に亘って続く大凶作。
此の入れ替わりの時、有馬の家臣たちは地元を離れず生活の為と「浪人狩り」を恐れ帰農した者達が少なくなかった。
しかし松倉重政は反対に家来の殆ど全てを引き連れ着任した。
重政はその帰農した「元武士」が気に入らず、是等の者に他の農民達の上にも益々重税を課し到底その負担に耐えられない程、多額の米を要求。
応じられない者にはその婦女達をも処分の対象とした。
跡を継いだ勝家は更に重税を課すに及ぶ。
本来4万石程の領地なのであるが9万4千石の取り立てを行い、江戸城の石垣労役10万石分を自ら買って出たりして居た。
当時、言い掛かりを付けられ取り潰しを受けるのが常の時期だったからである。
しかし水牢、水責め、炙り責め、鋸引き、蓑踊り、雲仙御山入り等、色々な刑が有るが是は幕府の指示ではない…。
晴信の方はと言うと是また本田正純の家臣である岡本大八に唆され、甲斐の国で斬刑処理の憂き目に。晴信の子である直純はキリスト教を棄教し日向延岡に移封。代わりに大和の国奈良五条から島原の領主として遣って来たのが松倉豊後守重政。
有馬晴信の子である佐兵衛直純が半島の南端に位置する有馬郷大江村に原城を建てたが日向延岡にに国替えに成ったら重政は是を嫌って廃城とし東端の島原湾に面した高台に島原城を築き居を移す。
直純の方は幕府の禁教令に因り棄教したのが地元で一台顰蹙を買ってしまい自ら移封を願い出て日向延岡に移る。
原城はその景観から別名、日野江城とか日暮城とか言われる。
松倉重政が7年かけて完成させた石垣の上の5層天守閣と云った安土桃山式名城島原城、重税を課して建てられた為「恨みの城」とも呼ばれる。
当初、重政は交易の利点も有ってキリシタンに対し寛大な態度で在ったが、徳川家光が将軍と成り禁教令を強めると弾圧へと変わる。
重政が死ぬと、その子松倉勝家が父重政に輪をかけて過酷な弾圧を行い更に3年に亘って続く大凶作。
此の入れ替わりの時、有馬の家臣たちは地元を離れず生活の為と「浪人狩り」を恐れ帰農した者達が少なくなかった。
しかし松倉重政は反対に家来の殆ど全てを引き連れ着任した。
重政はその帰農した「元武士」が気に入らず、是等の者に他の農民達の上にも益々重税を課し到底その負担に耐えられない程、多額の米を要求。
応じられない者にはその婦女達をも処分の対象とした。
跡を継いだ勝家は更に重税を課すに及ぶ。
本来4万石程の領地なのであるが9万4千石の取り立てを行い、江戸城の石垣労役10万石分を自ら買って出たりして居た。
当時、言い掛かりを付けられ取り潰しを受けるのが常の時期だったからである。
しかし水牢、水責め、炙り責め、鋸引き、蓑踊り、雲仙御山入り等、色々な刑が有るが是は幕府の指示ではない…。
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